Wednesday, April 17, 2013

Y段

東京 国分寺

Y段(わいだん)

階段が途中で分かれている、三叉路、Y字路の階段版。
名前もさることながら、その形状もどことなくセクシーである。
階段巡りをしていて道程的に両方に登ることは困難である場合、どちらかに選択を迫られることもある。
千葉 松戸

Monday, April 15, 2013

変歩調階段

名古屋 覚王山

変歩調階段(へんほちょうかいだん)

途中で段差や踏み面の大きさが変わることで一定のリズムで歩くことを拒否する階段。
地形に合わせると自然と変歩調になるので、実は変歩調のほうが味わい深いと見る向きもある。
元々は形状そのものを指す言葉だが、自分の歩幅に合わないことを変歩調と呼ぶこともあるため
「この階段はけっこう変歩調だね」
「そう?けっこうリズミカルだと思うけど」
という会話がなされることになる。
長く、かつ変歩調の場合はもちろん変歩長調と呼ぶ。

また、かつての城郭では階段の幅を変えることで敵が登りにくくしていたそうである。その意味では変歩調階段は防衛力の高い階段であると言えよう。
東京 茗荷谷



Sunday, April 14, 2013

階段児

群馬 土合

階段児(かいだんじ)

すごい階段を見つけると子供のようにテンションがあがるちょっとおかしい人間のこと。
階段を登るために遠出しいい階段を見てニヤニヤしているひとに遭ったら「素敵な感性をお持ちですね」といってあげよう。

Saturday, April 13, 2013

龍が走る

横浜

龍が走る(りゅうがはしる)

階段に亀裂が走っている状態を表す。単に龍とも。
どういうわけかコンクリ製の階段はよく一筋に亀裂が入っている。
階段の増築等により作られた時期が異なるためにそこが亀裂の元になっているものは龍とは呼ばない。
どう考えても構造上望ましいとは思えないが見る分においては無機質になりがちなコンクリ階段に華を添える重要な存在である。
階段を歩きながら自然と「これはいい龍だね」という言葉が出てきたら重症といえる。

東京 四谷

Wednesday, April 10, 2013

つっかけ階段

東京 港区

つっかけ階段

ゴミ捨てに行くときわざわざ靴履くのはめんどくさいし…というときに履くつっかけのように、なくてもいいんだけどとりあえず作っておくか、というような雰囲気を感じる微妙な階段。
コンクリブロックが階段代わりにおかれているものも、洗濯物を干そうとベランダに出るときに履くサンダルのような趣があり味わい深い。

東京 世田谷

段違い平行階段

東京 谷中

段違い平行階段(だんちがいへいこうかいだん)

単に平行階段とも。
二つの道が隣り合っているがその間には何もなく、その二つの道を結びつける階段。
三次元的な意味で平行でなくとも地図上で同じ方向に向かって伸びていれば平行であると言ってもいいよね?

Tuesday, April 9, 2013

一段

東京、高田馬場

一段(いちだん)

「登る目的があると思われる段差は階段である」という目的論的定義によって得られる最小の階段。
「これ斜めにすれば車も通れるんじゃない?」と言われドライバーには嫌われること必至。
わざわざこんなものを地図に載せているゼンリンの細かさには頭が下がる。

東京、東新宿

Monday, April 8, 2013

見返り階段

横浜

見返り階段(みかえりかいだん)

階段を降り、次の階段を登っていきふと後ろを振り返ると向いに先ほど降りてきた階段が見える状態。階段そのものではなく、階段の位置関係を表す言葉だと言える。
見返り階段になるためにはお互いが比較的近距離にあり急でないと視認しにくい。また、単なる台地ではなくスリバチ状の谷間であることも条件になる。そのため東京のように緩い坂の土地では数少ない。
また、地元の人間はおそらく階段を降りたあとまた向かいの階段に登っていくという経路を取ることは少ないと思われるので、あくまで階段好きによる視点の言葉だとも言える。
東京、赤羽



Sunday, April 7, 2013

廃段

横浜

廃段(はいだん)、廃階段

既に歩けなくなった階段。廃道に近い。
しかし廃道は公式には廃止になっていても物理的には歩けるところが多いけど、廃段は歩くのがかなり困難であることがほとんどで、崩落の危険を伴うので登ってはいけない。
階段は登ってなんぼではあるけど、廃段に関しては見て愛でるに留めておこう。
東京 茗荷谷
横須賀 猿島

Thursday, April 4, 2013

階段の魅力

俺が階段に魅力を感じるのは大きく分けて次の三つになる。
  1. 段差が続いていくセクシーなフォルムという見た目的な特徴
  2. どこにでもあるから新しいものがいつでも探せるけど、地域内では数が限定されているのでコンプリートできるコレクター魂を満たす
  3. そこに人が生活しているという証
1については前回書いた定義の階段を、美的と感じるかどうかという受け取り手の問題である。2は完全に俺の個人的な感情だけど、完璧主義のきらいがある自分は適当に回るということができないので自分にとっては大事である。しかし自分が特に階段に感じいるのは3のためだと言っていいだろう。

階段というのはひとが通行し、登るために作られる。そして階段は車を拒絶し足で登るしかない。そのような急峻な土地は必ずしも住みやすいとは言えないし苦労を伴うだろう。
横浜、保土ヶ谷
自分は飛行機より電車、特急より鈍行、車より歩くことが好きだ。もちろん便利さは大事なことだけど、世界のリアリティをこの身で感じることでもっと大事なことが見えてくる。

階段を見ていると、そこにある人間の生活が浮き出てくるし、「人間のしぶとさ」というようなものが現れているように思う。

長野の茅野市を歩いていたときに畑の中を歩いていると、階段とともに立て札があり、そこには弥生時代の上蟹河原遺跡と書いてあった。もちろんその階段が弥生時代に作られたわけではないけど、その斜面はおそらくは弥生時代から続いてきて、いつの時代かに階段になったのであろう。
長野県、茅野市

そのような憧憬に自分はある種の愛しさを感じないではいられない。自分にとって、階段とは人間の生活を映した鏡なのだ。

俺の知人に寒村や離れ島の床屋で散髪することを生き甲斐にしているひとがいる。彼にとっては床屋でそこの生活を聞くことこそが人間の生活を感じる手段なんだと思う。

自分はけっこう非コミュで直接的にそういう話をするのが苦手なので、階段を歩いてそこはかとなく生活臭を感じるのが好きである。

Tuesday, April 2, 2013

階段とはなにか

前回 → 坂とはなにか

階段は坂と違って

存在がもう少し明確である。前回「すべての道は0度を極限とした坂である」ということを言った。ハングオーバーしたらおそらくは足で歩く道ではないし垂直な平面も壁であって道ではない。とすると坂道の取りうる範囲は0度から90度であり、実数なので切れ目がない。このことが坂の定義を難しくしていた。

しかし階段は離散値を取る

のである。離散値とは間を取らない数のことだけど、もう少しわかりやすくいうと階段は自然数で1段、2段であり、0.5段、5/3段、π段のような段は持たない。当たり前かもしれないが坂では連続値だったので大きな違いである。

もちろん階段においてもじゃあどこから段差なのかということを論じることも不可能ではないけど、坂においてあまりに小さな値を坂と言い張ることは空論のそしりをまぬがれないように、階段にとってもそこを論じることに対して意味はないだろう。実際段差をみて「これは段差か?段差じゃないか?」と議論することほど不毛なものはない。

だけど階段は何段から階段か?

ということは少し考えなければならない。なぜなら「東京の階段」の筆者であり階段の第一人者、松本 泰生氏はブログでこう述べている。
段数が1段の場合は、一般に「段差」と呼ばれることが多い。歩道と車道の間なども1段なので、1段から階段として扱ってしまうと厄介だ。従って2段は、階段としては最小。
http://blog.goo.ne.jp/tokyostair/e/bbedc669ec71c51101fd0b59de0e8033
 この考えを否定するわけではないけど、ここには坂のときに書いた目的論的視点がないと思う。歩道と車道の間の段差はそこを登って通行することを目的としていない。むしろひとつのバリアとして機能することが目的であろう。すべての斜面が坂でないように、通行目的の段差こそ階段で、その目的があれば段差は階段なのである。
一段でも階段

もちろんこれが最終的な階段の定義であるというつもりもないけど、自分はこの先々階段の分類も行なっていきたいと思っている。そのためには最初になるべく広く間口を取り、そこから切り分けていくのが得策だと思っているのだ。ここまでが階段でそれ以外は階段ではないとしてしまうとあとあと問題が発生しやすい。

そんなこんなで階段の定義はできたわけだけど、これによって

階段は見つけやすい

というメリットを得ることになる。目で見てすぐに階段と認識できるのである。その結果坂道と違い階段は地図に明示されることになった。地図を見ればどこに階段があり、どれくらいの大きさなのかということがわかるのである。有名坂を離れ、無名坂の漠然とした存在にさまよっていた私達にとってこれは光明である。

階段が集まる土地

というのは意外に少ない。これは人間の生活形態と文明の発達に原因がある。人間は本来平らな場所に住もうとする。それはもちろんそれが最も労力が少ないからである。災害や外敵から避難するためある程度高台に住むことはあっても住みやすい平地があるのにあえて斜面から先に住んでいくことはないだろう。そのため人口の大きな街というのはほぼすべて平野や盆地に集まることになる。

しかしある大都市の外郭として小さな平地に形成されたのに他の事情で大きく発展してしまった場合、平地には人を収容しきれず斜面に住まざるを得ないことになる。これが長崎や横浜といった坂・階段の街ができた由来であろうと推測している。

東京はある程度台地があるといっても横浜や長崎ほど急な斜面はなく、車文明の到来とともに階段はならされ舗装されなだらかな坂へと変貌していった。しかしそれ以上に急な斜面を抱える土地では逆に人口の増加とともに階段が増えていったのではないか。

そのような理由があるので、階段が広範囲に渡って集中している土地というのは長崎・尾道・横浜くらいで他にはないのかもしれない。

それでもまだ見ぬ階段がある。

有名坂は数が限られているし、坂はあまりに果てしない上に見てもぼんやりしているものが多く、素晴らしい坂を見つけるのは大変だ。それに対して階段は地図で探せてある区画に限定すれば全部回ることが可能だ。その上日本全国どこでも階段はある。なるべく階段が多くあるような場所にいけば必然的に見た目が素晴らしい坂に出会える可能性も高くなるはずだ。そう、階段巡りは実は坂好きのサブとしても最適な趣味なのである。

そうやって坂・階段を回っていくと、きっとあなたも階段の魅力にどっぷりとはまることでしょう。

Monday, April 1, 2013

坂とはなにか

このブログはどちらかというと階段をメインにしているけど、階段を考える上で坂の存在は無視することができない。なので階段を考える前にまず坂の定義を考えたい。なぜなら「坂」というのは基本的に「階段」を内包すると考えられるからだ。

しかしまああんまり細かく書いても伝わらないし大雑把に概要を述べる。

坂というものの定義

を一般的に考えると「角度のついた道」と言えるだろう。「道」というのは基本的に人間が通行することを目的としている平面と言っていい。角度がついていても山の斜面は通行を目的としていないので坂とは言えない。そこを人が通ることを常態化することで坂と呼ばれうるようになる。こういった問題を考えるにあたって目的論的解釈というのは問題をはらむことが多いけど、この件についてはそんなに問題にならないはず。

むしろ問題となるのは「角度」のほうである。果たして何度から角度が付いていると言えるだろうか。

数学的に考えればどれだけ度が小さくても角度は付いている。ということは0を極限としていて、無限に0に近づくわけだから(無限論によるけど)0も含めるといえる。これは「真円は楕円の特殊な形」「正方形は長方形の特殊な形」と同型で、「平らな道は坂の特殊な形」ということができるだろう。

しかしこれはあくまで数学的な視点であって、専らリアリティを追求する自分としてはこれを定義とするのはいささか強弁であるように思う。坂というのはあくまで人間がカテゴライズするものなのだから人間の実感に沿ってなくてはならない。つまり、少なくともその角度は人間が実感できるものである必要がある。

聞いたところによると、人間は1度の斜面で寝転がるとその角度を感じることができるらしい。坂かどうか判断するためにいちいち道に転がっていると往来の危険があるし何よりも奇異の目にさらされるだろうことは想像に難くないのでおすすめできない。
キャンパス内のスロープで転がる友人A
どう見ても奇異な人だ。

実際のところ、そこに立ってみて斜めであることを少しでも感じられたら角度がある=坂である、と言えるだろう。もちろんこれは個人差があることになるが、私達は先に数学的定義を否定したのだから甘んじて受け入れる必要がある。

してみると、一応数学的定義を否定したにしても私達の周りにはなんと坂が多いのだろうと気がつくはずである。どんなに平坦な土地に住んでいても少し周りを見渡せば多少の勾配の道はあり、それはすべて坂なのだ。

これが坂を歩く人間を「歴史家」に向かわせる

大きな要因であると自分は考えている。坂好きには大きく分けて二つの人種がいる(と自分は思っている)。ひとつは名前を持つ坂が好きな有名坂派、もうひとつは坂そのものが好きな無名坂派である。とはいったものの、この二つにおいて前者の有名坂派のほうがおそらくは圧倒的に優勢である。

有名坂派の代表はなんと言ってもタモリであろう。タモリの坂好きは坂愛好家のみならず一般に知られる事実であるようだけど、タモリは他の趣味でもだいたいにおいて共通しているように「江戸時代そこには何があったのか」のように歴史的経緯や名前の由来から坂を見ている。自分もそれを否定する気はなく、坂の由来の看板を見ては足元に江戸があることに感動を覚えることも多い。

ひとは名前が好きである

名前とは記号であり、象徴である。そこに名前があると単純に記憶に残りやすいし元々あった以上の意味を持ち始める。

ところが名前を持つ坂というのは実は多くが昔から往来が多かった場所なわけで、それはつまり交通量が多く、車社会の到来とともに整備されなだらかで広い道へと変貌している。
富坂
昔の情景はわからないけど現代において○○坂という名前を聞いて行ってみるとこのように幅が広いただの道路というところが多い。やはり街歩きをするにあたってこのような情景では少し侘びしい気がしてしまうものだろう。

それに、名前が付いている坂というのはかなり東京に偏在している。坂のブログ等をみてもたいては東京を中心にしている。街歩きという観点からするとあまりに東京に集中してしまっては街歩きという文化を自ら先細りさせてしまっているようにも思える。

無名の坂もいいものである

ということはことさら言うほどのものでもない。急な坂道や、ながーく続いて途中でくねっと曲がってる坂道などなど、非常に味わいがある。そういう素敵なところはいっぱいあるんだけど、そういう無名坂を歩こうとすると大きな問題があるのである。

無名坂ってどこにあるの?

というものだ。有名坂は昔から地図がいっぱい作られてきたのですぐに探し出せる。根気があれば数年で東京のめぼしい有名坂を制覇することもできるだろう。それに対し坂の定義から考えても無名坂はあまりに数が多いし、地形図と照らしあわせてもそこから実際のいい坂を見つけ出すことはかなり困難である。適当にあたりをつけていってみるしかないのだ。それはそれで楽しいことではあるんだけど。

そこでなんとなくわかってきたと思うけど、階段にはそれらをカバーして余りある魅力が詰まっているのである。

階段とはなにか に続く。